初期化すら無効化してやるぜ!
アニメ化前から原作は読んでいましたが、序盤の方だけだったので、あっという間にアニメに追い抜かれてしまい、今は毎週アニメを楽しみに見ています。
主人公の泉水子(いずみこ)ちゃんは機械と物凄く相性が悪くて、親近感が湧きますね(笑)。
46.2kg。
そのデジタル数字を見下ろした私は、ほっとして体重計から下りた。
ちょっと前にニュースで「立冬です」って言ってただけあって、さっき脱いだスリッパは早くも冷たくなりかけてる。
スリッパ越しにも床の冷たさが伝わってくるみたいだった。
体重計を信用してない訳じゃないけど、私は視線を下に落としたまま、スリッパを履いた足からくるぶしにかけての線をまじまじと眺めた。
むくんだり太ったりすると、
くるぶしの辺りのきゅっとした線が出なくなるからすぐにわかるけど、今の私の足はきちんとその線を描いてる。
昨日ケーキバイキングでドカ食いしたから、平気で一キロくらい増えてそうで心配だったけど、取り越し苦労だったみたいだ。
昨日出掛ける前に量った時はもう〇.二キロ軽かったけど、今と同じで服を着たまま量ったから、多分重くなったのは服のせいだろう。
きっとそうだ。
今日着てるのは、昨日より厚手のセーターだし。
もしセーターのせいじゃなくても、〇.二キロくらいなら変わってないようなものだった。
私が大満足で体重計を片付けてると、後ろからお兄ちゃんの声が掛かる。
「何、また体重計乗ってんの? もしかして太った?」
「あのねえ、私はお祖母ちゃん似なの! お母さんと違って、食べても太らない体質なの!
これは単に理想体重をキープできてるか確かめてるだけなんだからね!」
「ふーん」
お兄ちゃんは全然信じてないのが丸分かりの口調でそう言った。
私は振り返ると、洗面所のドアに寄り掛かったお兄ちゃんを軽く睨む。
お兄ちゃんは私の三つ年上の大学一年生だ。
私より頭半分くらい高い背は、極端に高くも低くもない。
項が隠れるくらいに伸ばした髪を茶色く染めてるけど、小まめに染めに行ってる訳じゃないから根元が黒かった。
実のお兄ちゃんながらなかなか整った顔立ちは知的で、コーヒーをブラックで飲むのが好きそうな感じだけど、その実大の甘党だ。
私も甘い物は好きだけど、お兄ちゃんみたいにわざわざ生クリームを泡立ててそれだけ食べたりはしないし、ココアに砂糖を何杯も入れて美味しそうに飲んだりもしない。
普通の人が一生に食べる砂糖を軽く食べ切ってるようなお兄ちゃんだけど、
太ってるどころか細いくらいで、ほっそりしたジーンズがよく似合った。
その大きな手には、フォークとショートケーキの乗ったお皿。
昨日一緒に行ったケーキバイキングのお店で買ってきたケーキだ。
私は昨日の内に自分の分は食べちゃったけど、お兄ちゃんは楽しみを後に取っておく主義だから、今日まで残してた。
多分自分の部屋に行く途中だったんだろうけど、お兄ちゃんはドアに背中を預けたままケーキにフォークを入れる。
「女って何でみんなそう体重気にするかねえ。その癖ケーキバイキングに行ったりするし、訳わかんねえ」
「そんなだから彼女いない暦=(イコール)生きてきた年数なんだよ。
何回言っても靴下裏返して洗濯機に入れるしさ。一昨日またやったでしょ。干す時大変なんだから、裏返さないでって言ってるのに」
「あー、悪い悪い。これでも一応気を付けてるんだけどなあ」
もう何度も聞いた台詞は反省の色ゼロだった。
お兄ちゃんがそういう態度なら、こっちにも考えってものがある。
私はお皿のケーキを掴むと、大口を開けて齧り付いた。
「ちょ、何すんだよ! この泥棒ネコー!」
「ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ!」
私はケーキを口に入れたまま高らかに笑うと、頬張ったケーキを飲み込んで言った。
「迷惑料だよ。ご馳走様」
「てめえ……それとこれとは別問題だろーが! 返せ!」
「えー、こんな手形と歯型がばっちり付いたケーキ食べたいのぉ? はい❤」
私が食べかけのケーキをお皿に戻すと、
お兄ちゃんはあちこち変形しまくったケーキを見下ろして泣きそうな顔になった。
「……やっぱいい」
「じゃ、もーらい!」
残りのケーキを平らげて手を綺麗にすると、私はしょぼくれたお兄ちゃんを残して洗面所を出た。
ふと腕時計を見ると、余裕だった筈の待ち合わせ時間まで五分もなくなってる。
待ち合わせ場所に一番近くに住んでるのに、遅刻する訳には行かなかった。
私は慌ててリビングに置いてあったコートを羽織ると、バッグを手に取る。
タイツに包まれた足をブーツに突っ込んでいると、ケーキを失くした悲しみから立ち直ったらしいお兄ちゃんが玄関まで見送りに来てくれた。
「今日、部活のみんなとカラオケだっけ?」
「うん、ちょっと遅くなるかも。悪いけど、急ぐから鍵閉めといてね。行って来まーす!」
私はドアを開けると、寒いと思う間もなく玄関脇に止めておいた自転車に飛び乗った。
そのまま勢いよくペダルを踏み込む。
待ち合わせのカラオケボックスまでは五分くらいだ。
飛ばせば三分くらいで着くだろう。
壊れるんじゃないかと思うくらいの速さで、私は自転車を走らせた。
寒さのせいで、風を切る頬が少し痛い。
溶けてく景色を後ろに流しながら自転車を飛ばしていると、いきなり横から甲高いブレーキの音と衝撃が来た。
あ。
と思った時から、目に映る全てが急にゆっくりになる。
頭はひどく冷静に状況を理解していて、何かしなくてはいけないと思うのに、自転車から投げ出された体は宙に浮くばかりで指一本動かない。
そのままずっと飛んでいられそうな気がしたけど、重力が私を逃す訳なかった。
落ちていく。
でもそれはひどくゆっくりで、現実感がまるでない。
夢を見てるみたいだった。
もしかしたら本当に夢を見てたのかも知れないけど、アスファルトに叩き付けられた痛みで否応なく現実に引き戻される。
痛みで朦朧とする意識の中で、私はただ空を見上げていた。
今にも破れてしまいそうな、ひどく淡い色の空。
それが、私の見た最後のものだった。
入院が長引く程の怪我はしなかったけど、事故が原因で私は光を失った。
お医者さんが言うには、頭を強く打ったことで両目の視神経というやつを駄目にしてしまったらしい。
世の中には絶望的な状況でもほとんど無傷で助かった人だっているって言うのに、我ながらうんざりする運の悪さだった。
あの時、どうしてもっと上手く転べなかったんだろう。
どうしてあの道を通ったりしたんだろう。
あの道に車が来てたんだろう。
今更悔やんでもどうにもならないけど、
どうにもならないことが起こってしまったからこそ後悔は尽きなかった。
目を開けても閉じても見えるのは暗闇だけで、物の在り処どころか時の移り変わりさえわからない。
せめてこの見えない目で見える色が、黒じゃなくて白だったら良かったのに。
これじゃ文字通りお先真っ暗だ。
退院して家に戻った私は体重計に乗らなくなったし、洗濯物を干すことも、裏返った靴下のことでお兄ちゃんに文句を言うこともなくなった。
友達とも遊ばなくなった。
学校にも行かなくなったし、行けなくなった。
盲学校に行こうとも思わなかった。
今じゃ法律が変わって、盲学校は聾学校や養護学校と一緒に「特別支援学校」になってるそうだから、特別支援学校って言うべきなんだろうけど。
でも聴覚障害の人達は「聾」っていう言葉に自分達のアイデンティティーを見出してて、改名に反対したりしてたりするんだってお兄ちゃんが教えてくれた。
どうして人より能力が足りないことをアイデンティティーにしようなんて思えるんだろう。
私は絶対そんな風には思えない。
目が見えなくなってから、今まで当たり前にできてたことが何一つできなくなって、ご飯を食べることさえ一苦労で、自分がひどく惨めで仕方なかった。
お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、みんないつも通りに接してくれたけど、私はとてもみんなみたいには振る舞えなかった。
光と一緒に、事故に遭う前の自分まで失くしてしまったみたいだった。
私は部屋に閉じ篭ったまま、毎日何もせずベッドの上で過ごした。
何かしようと思うと、何もできなくなってしまった自分をどうしても意識してしまうから、何もしたくなんてなかった。
点字を勉強するとか白杖の使い方を覚えるとか、やらなければならないことはたくさんあるのに、何もする気がしなかった。
ただ静かに呼吸だけを繰り返して、私は自分が死ぬ日を待っていた。
そんな日が暫く続いたある日、お兄ちゃんがノックもなしに部屋に入ってきて言った。
「なあ、友達にいい店があるって聞いたんだ。行ってみねえ?」
「……行かない。どうせ何にも見えないんだし」
「見えなくても味はわかるだろ? もうすぐ昼だし、飯食いに行こう。奢るからさ」
お兄ちゃんは私の腕を引いて、私を強引に布団から引き摺り出した。
お兄ちゃんが力尽くで自分の要求を通そうとするなんて、多分初めてのことだ。
今までお兄ちゃんに叩かれたこともなかったから、私はとにかくびっくりして、そこまでして連れて行きたいなら行ってもいいかなと思った。
それに行くって言わないと、ベッドから落とされそうだ。
私は必死でシーツに掴まりながら、悲鳴みたいな声で言う。
「ちょ、わかった! 行く! 行くから用意くらいさせて!」
「あ、うん。そうだな」
お兄ちゃんの手が離れると、私は漸く落ち着いてベッドに座り直した。
お兄ちゃんの手を借りて用意しなければいけないと思うと、出掛けようって気持ちが早くも萎えそうになったけど、
お兄ちゃんが私を心配して連れ出そうとしてるのもわかるから、我慢することにする。
「じゃあ、着替えるから、チェックのワンピースとクリーム色のカットソー出して」
「わかった」
お兄ちゃんがそう言ってすぐに、クローゼットを開ける音がした。
次にがちゃつくハンガーと衣擦れの音。
ベッドに置かれた服が、布団を小さく揺らした。
「服、ベッドの上に置いたから。着替え終わったら呼べよ。外で待ってるから」
お兄ちゃんがそう言い置いて出て行くと、私は手探りで服を探し当てた。
ちょっと時間はかかったけど、どうにか着替えを終える。
脱ぎ捨てたパジャマをそのままに、私はお兄ちゃんを呼んだ。
「終わったよ」
ドアが開く音を聞きながら、私はベッドから下りて記憶を頼りにドレッサーに向かって歩き出す。
闇雲に手を彷徨わせていると、その手をお兄ちゃんに掴まれた。
「何探してんの?」
「ドレッサー。髪梳かしたくて」
「ならこっちだ」
私はお兄ちゃんに手を引かれるままに歩いて、ドレッサーの前の椅子に座らせてもらった。
少し苦労して引き出しを探し当てると、中から櫛を取り出して髪を梳き始める。
こんな風に髪を梳かすなんて久し振りで、少し変な感じがした。
ほんのちょっと前まで毎日してたことなのに。
「ねえ、寝癖付いてない?」
「別に平気だけど?」
「そっか」
目が見えないって本当に不便だ。
寝癖が付いてるかどうかもわからない。
見えない鏡の前で、私は静かに櫛を動かし続けた。
身支度を整えた私は、お兄ちゃんに連れられて家を出た。
バスに乗ってたのは駅までの十分くらいだったけど、電車には随分長く乗ってた気がする。
名前も聞いたことがない駅で降りたお兄ちゃんは、「駅からそんなに遠くないから」と言って歩き出した。
そのお兄ちゃんの肘の少し上に掴まって、私は半歩後ろを歩いてく。
お兄ちゃんは目の見えない人との歩き方を勉強したみたいで、こうやって歩くのがいいんだと言った。
お兄ちゃんが「右に曲がるよ」とか「段差があるから」とか、丁寧に誘導してくれるから私はとても助かったけど、一人だとまともに歩けもしないのはやっぱり口惜しい。
時間が経てば経つ程、お兄ちゃんに頼らなくちゃいけないのが嫌になって、「もう帰ろう」って言葉が喉元まで出掛かった時、お兄ちゃんが言った。
「着いたよ。階段あるから気を付けて」
「……うん」
私がそろそろと階段を上がると、お兄ちゃんがドアを開ける気配がした。
ドアに付けられてたらしいベルがからんと大きく音を立てて、私達が来たことをお店の人に知らせる。
お店の中に入ると、ベルの音の余韻が消えない内に、奥からゆったりした足音が近付いてきた。
そんなに重くないから、多分ウェイトレスさんだろう。
「何名様ですか?」
そう問いかけてきた声は、やっぱり女の人のものだった。
多分中年くらいだろう。
おっとりした柔らかい声に、お兄ちゃんが答える。
「二人です」
「では、こちらへどうぞ」
奥へ向かい始めたウェイトレスさんの足音を追って、お兄ちゃんが歩き始めた。
でもすぐに先を行く足音は止まって、お兄ちゃんと私も足を止める。
部屋が区切られてるみたいで、奥の部屋からはくぐもった静かな音楽と何人かの話し声が聞こえてきた。
「目が慣れるまで、ここで少々お待ち下さいね」
目が慣れる?
どういうことだろう?
訳がわからなくて、少し不安になった。
「……ねえ、ここってどういうお店なの?」
怖々お兄ちゃんにそう尋ねると、お兄ちゃんが答えるより先にウェイトレスさんが問いかけてきた。
「あら、初めての方ですか?」
「はい」
ウェイトレスさんはくすりと笑った。
「じゃあ、びっくりされたでしょう。ここは『暗闇レストラン』なんですよ」
ウェイトレスさんの案内で、私達は二人掛けのテーブルに通された。
でも流石『暗闇レストラン』だけあって、その案内からしてちょっと変わってる。
お兄ちゃんが言うにはお店は本当に真っ暗だそうだから、「ご案内致します」なんて言われて他のお店と同じように案内されても、とてもテーブルまで辿り着けない。
お兄ちゃんがウェイトレスさんの肩に掴まって、そのお兄ちゃんの肩に私が掴まって、幼稚園のお遊戯みたいに一列になって案内してもらった。
ウェイトレスさんはどこにあるか全部覚えてるみたいで、他のテーブルにぶつかったりすることなく私達を案内してくれた。
席に着いたら着いたで、真っ暗な中でメニューなんか読める訳がないから、注文するものを選ぶにもやっぱりウェイトレスさんが欠かせない。
お水を持ってきてくれたさっきのウェイトレスさんに尋ねると、メニューを一通り教えてくれた。
この『暗闇レストラン』はイタリア料理のお店みたいだけど、デザートと飲み物を除いたメニューは五つしかない。
どうしてこんなにメニューが少ないんだろうと不思議に思いながら、私は完熟トマトのリゾットを、お兄ちゃんはかぼちゃのクリーミーパスタを選んで注文した。
「ご注文は以上でよろしいですか?」
「はい」
「畏まりました。他にも御用があれば遠慮なくお呼び下さいね。
私は斎賀(さいが)と申します。呼び鈴はありませんから、直接声をお掛け下さい」
斎賀さんはそう言い置くと、ゆっくりとした足音と一緒にテーブルから離れて行った。
一々ウェイトレスさんが名乗る店っていうのも珍しいけど、真っ暗だと誰がどこにいるか言わないとわからないからだろう。
部屋を出入りする度に「ウェイトレスですよ」なんて言うのも何だか馬鹿みたいだし。
辺りに耳を澄ましてみると、ウェイトレスさんには他にも真堂(しんどう)さん、神崎(かんざき)さん、水無月(みなづき)さんっていう人がいるらしかった。
ここにいるお客さんは多分みんな目が見える人達なんだろうけど、
真っ暗じゃ何をするにも斎賀さん達の助けが必要みたいで、戻ってきた彼女達が名乗る度にあちこちから声が掛かる。
何だかアットホームな感じのお店だなあと思っていると、テーブルに置いてた私の手にお兄ちゃんのそれが触れた。
「どうかした?」
「あ、悪い。ちょっと水取ろうと思ったんだけど」
「もうちょっとそっちじゃない?」
「そっちってどっちだよ」
「だから、お兄ちゃんの方」
「うーん、うっかり手ぇ振り回すとグラス、かなあ? 倒しそうだし」
「しょうがないなあ」
テーブルの上で手を滑らせた私は、水の入ったグラスを探り当てると、コースターごとお兄ちゃんの方に押しやった。
「見付かんないなら、これ飲んでいいよ。私、お兄ちゃんのもらうから」
「有難いけど、お前の水がどこにあるかもわかんねえ」
「ここだよ、ここ」
「だからわかんねえって」
「もう、ちょっと手出して」
私はお兄ちゃんの手を見付けると、グラスに触らせた。
「お、あったあった。サンキュ」
何気ないその一言に、私は思わずきょとんとした。
お兄ちゃんにお礼を言うことはあっても、もうお礼を言われることはないだろうと思ってたから。
何となくだけど、お兄ちゃんが私をここへ連れてきた訳がわかった気がした。
お兄ちゃんのあったかい手がグラスと一緒に離れて行くと、あのゆったりした足音が近付いてきた。
斎賀さんの声がする。
「お待たせしました。
完熟トマトのリゾットとかぼちゃのクリーミーパスタをお持ちしましたよ」
「あ、リゾットこっちです」
私がそう言うと、すぐ側にリゾットのお皿とスプーンが置かれる音がした。
次いでパスタの載ったお皿とフォークがテーブルに触れる音が聞こえてくる。
音が一つ多かったから、多分スプーンも置いてくれたんだろう。
「ご注文の品はお揃いですか?」
「はい」
「では、どうぞごゆっくり」
斎賀さんの足音が小さくなると、私は音がした辺りに手を伸ばしてスプーンを手に取った。
でもお兄ちゃんはなかなかフォークが見付けられないみたいで、情けない声を出す。
「フォークどこだよー」
「早くしないと冷めちゃうよ」
「わかってるって。あ、これだ」
お兄ちゃんはやっとフォークを握れたみたいだけど、今度はお皿が見付からないらしい。
「なあ、皿ってどこ?」
「どこって、目の前にあるでしょ。見えないだけで」
お兄ちゃんが食べられるまで待ってようかと思ったけど、付き合ってられなくなって、私はリゾットを一口食べた。
トマトの仄かな酸味が口の中に口の中に広がる。
「おいし」
「そっか、良かったな。俺も食いてえ……お、これだなパスタ!」
お兄ちゃんは声を弾ませたのも束の間、激しく苦悩して言った。
「ぐおおお! パスタが巻けねえ!」
「あー、見えないと麺類って食べるの難しいんだよねえ。滑るし。
お兄ちゃんもリゾットにすれば良かったのに」
「うーん、失敗したかなあ……」
お兄ちゃんがパスタに悪戦苦闘していると、斎賀さんとは違う重い足音が近付いてきた。
知らない男の人の声が言う。
「失礼」
落ち着いたいい声。
結構年が行った感じだけど、張りがあっていい声だった。
声がいいからって顔もいいとは限らないけど、何となくロマンスグレーなおじ様を想像してると、男の人が紳士的に続ける。
「突然お邪魔をしてすみません。
初めまして。私はこの店のオーナーをしている者です。お食事はお楽しみ頂いていますか?」
「はい、変わってて面白い店ですね」
お兄ちゃんの声を聞きながら、私は確かに変わった店だなあとしみじみ思った。
食事中にオーナーさんに話し掛けられるなんて、これが初めてだ。
型破りなお店だけあって、オーナーさんから型破りなんだろう。
その面白そうなオーナーさんは、小さく笑みを漏らして言った。
「只の思い付きで始めた店ですが、皆さんに気に入って頂けているようで嬉しい限りです」
「思い付き、ですか?」
「ええ、私は目が見えないものですから」
「オーナーさんもですか」
私が思わずそう言うと、オーナーさんの声に微かな驚きが混じった。
「では、あなたも目が?」
「はい。見えなくなったのは、割と最近ですけど」
「そうですか……今が一番大変な時ですね」
「そうでもないです。点字の勉強とかはしてないんで」
「今はまだ、そういう気持ちになれませんか?」
「はい……」
今のままがいいなんて思ってる訳じゃないけど、気持ちの切り替えにはまだ時間がかかりそうだった。
もしかしたら切り替わらないまま、死んだように私は生きて行くのかも知れない。
目が見えないのにこのお店を始めたオーナーさんから見たら、私なんて凄く駄目な奴だろうけど、オーナーさんはどこまでも優しい声で言った。
「私も光を失った時、暫くは何をする気にもなれませんでした。
光だけでなく仕事まで失って、すっかり自信を失くしてしまったんです。
自分が人間として、ひどく劣った存在になってしまったような気がしたんですね。
目が見えていた時には簡単にできていたことのほとんどが、ひどく難しいことになってしまった訳ですから。
ですが、私は思ったんです。
目の見える人と張り合うのではなく、自分のような目の見えない人と見える人との立場を逆転させられる場所を作ればいいと」
「それで『暗闇レストラン』、ですか」
「はい。ここのスタッフの三分の二は、私と同じ視覚障害を持つ人達です。
ちなみにウェイトレスは全員視力がありません」
「え!? そうなんですか!?」
びっくりした。
白杖を付く音もしなかったし、てっきり斎賀さんは目が見えてるものだとばかり思ってたから。
でもよく考えてみれば、目の見える人が真っ暗闇の中でウェイトレスをするのはかなり難しいだろう。
映画とかでよくある赤外線スコープでも付けてれば話は別だろうけど、そんな高そうなものを付けてまでウェイトレスしてるとも思えない。
「全然気が付かなかったです。凄いですね」
「皆さんよく驚かれますが、練習と目の見える人のほんの少しの手助け次第で、私達は目の見える人と同じように働くことができるんですよ。
見えなくても彼女達は立派に労働し、その労働に見合った報酬を受け取っています。
ですからどうか忘れないで下さい。
あなたは確かに目が見えませんが、そのことで自分を卑下することなどないのだということを」
祈りの篭ったその言葉が、じんわり心に染みた。
オーナーさんの言う通りだ。
目が見えなくなったからって、私は何もできなくなった訳じゃない。
さっきだってお兄ちゃんに水を渡してあげられた。
今までは、ただ何もしようとしなかっただけ。
ちょっと時間はかかるかも知れないけど、練習すれば前みたいに洗濯物したり、靴下を干したりすることもできるだろう。
またお兄ちゃんに靴下が裏返ってるって文句を言うことだって、きっとできる。
光を失くしても、私は私そのものまで失くしてしまった訳じゃない。
「ありがとう、ございます」
「いいえ、私の方こそお相手して頂いて楽しい時間を過ごすことができました」
「あの、良かったらまたお話したいんですけど、オーナーさんはいつもこのお店にいるんですか?」
「いつもではありませんが、できるだけいるようにはしていますね。
店の様子も知りたいですし、見える人に見えない人のことをわかって頂きたくて、時々こうしてお話させて頂いているんですよ。
まあ、気休め程度にしかなりませんが」
「そんなことないですよ。
この店目の見えない人の世界をちょっとだけ体験できるようになってますし、いい試みだと思います」
お兄ちゃんがそう言うと、オーナーさんの笑みが小さく空気を揺らした。
「そう言って頂けると励みになりますね。
長い話に付き合わせてしまって申し訳ありませんでした。では、私はこれで」
「あ、あの!」
ちょっと迷ったけど、呼び止めちゃったらもう後には引けない。
私は思い切って続けた。
「このお店、バイトとか募集してないですか?」
「アルバイト、ですか?」
「はい。私目が見えなくなってからまだそんなに経ってなくて、働けるようになるまでちょっと時間かかっちゃうかも知れないんですけど、やり甲斐があって楽しそうだなあって思ったんで」
いきなりバイトはハードルが高い気がしたけど、
目の見えない私が目の見える人に頼られる場所なんてそうはないだろう。
ここがすっかり気に入ったから、できれば毎日でも来たい。
でもいつ頃働けるようになるかは全然わからなかった。
何しろ一人じゃ出歩けもしないんだから。
「あの、やっぱり駄目ですか……?」
「そんなことはありませんよ。
今のところアルバイトは募集していませんが、もうすぐ二号店が開店するんです。
やる気のある人は大歓迎ですよ。
店のメニューとお客様の注文とテーブルの配置を覚えるだけですから、点字が読めなくても支障はありませんし、都合のいい時にご連絡下さい」
そう言われて、ちょっとほっとした。
結構難しそうだけど、点字を覚えなくていい分、まだできそうな気がする。
これなら送り迎えさえしてもらえればどうにかなりそうだった。
「ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。電話番号などはおわかりになりますか?」
「あ、えーと……」
困っていると、お兄ちゃんが助け舟を出してくれた。
「後で教えてやるよ。確かネットに出てたから」
「ではお願いします。またお会いしましょう」
私が遠ざかる足音の方に顔を向けてオーナーさんを見送ってると、お兄ちゃんがちょっと心配そうな声で訊いてきた。
「なあ、お前ここでバイトするって本気?」
「本気だよ。オーナーさんもいい人みたいだし、すっごい気に入っちゃった」
「だからっていきなり過ぎだろ。あんな引き篭もりみてえな生活してるより全然いいけどさ」
「でしょ? ちょっと元気付けたいから、デザート頼んでもいいよね?」
怒られるかなと思ったけど、お兄ちゃんは怒るどころか笑った。
「いいよ。今日だけは許す」
「じゃあ、チョコレートケーキとフルーツタルトとミルフィーユね」
私は今日一日のいろんな「ありがとう」の代わりにそう言った。
改まった感謝の言葉なんて、とても言えない。
放課後になってから三十分以上経ってた。
帰宅部はみんなとっくに帰って、それ以外の奴は部活の真っ最中。
廊下にいるのは私一人だった。
春の夕方はまだ始まったばかりで、四角い窓に切り取られた夕日がたっぷりと廊下に注ぎ込んでる。
夕日と蛍光灯の明かりで光るタイルを軽く蹴って、私は鞄と一緒に走った。
運動部の声や吹奏楽部の演奏が遠くから響いてても、目に見える所には誰もいない。
おまけにここは怪談だらけの学校だ。
お化けなんか信じてる訳じゃないけど、一人だとちょっと怖かった。
早く忘れ物を取って帰ろう。
私は足を速めて階段を駆け上がった。
本当なら今頃家に着いてる筈だったのに、一人でこんな所にいるなんてひどく惨めな気分だ。
でもケータイを学校に忘れたら取りに戻るしかない。
明日はまた学校があるけど、ケータイが一晩手元にないなんて考えられないことだった。
メールや電話を朝まで放っておいたら、後で何て言われるかわかったもんじゃない。
三階まで上がって廊下を走ってると、奥からヴァイオリンの音が聞こえてきた。
近くに人がいるとわかって、ちょっとほっとする。
多分吹奏楽部だろうけど、ヴァイオリンなんて珍しい。
弾いてるのは新入生みたいで、あんまり上手くなかった。
何て曲だろう。
どこかで聞いたことがある気がするけど、タイトルはわからなかった。
「ねこふんじゃった」も弾けないくらい音楽のことはさっぱりでも、このヴァイオリンの弾き手が下手だってことはわかる。
何度も音を外して、時々ガラスを釘で擦った時みたいなひどい音もした。
弾き手は私が行こうとしてる教室にいるみたいで、ヴァイオリンの音色がだんだん大きくなってくる。
その音が急に途切れた。
教室に着いた私がドアを開けると、中はがらんとしてた。
夕日と薄闇が交じり合う空気は、ホームルームの時よりひんやりしてる。
教室の前の壁にはチョークの粉だらけの大きな黒板。
反対の壁にはみんなが荷物を置くロッカーがあった。
だらりと下がる明かりの点いてない蛍光灯の下で、いい加減に並んだ机が列を作ってる。
見慣れた教室の中に、意外な奴がいた。
『だいちゅう』。
同じクラスの男子だ。
名前は確か『大宙(たかひろ)』だったと思うけど、名前のインパクトが強いせいで、名字の方はうろ覚えだった。
何しろ字が凄い。
多分「スケールの大きい人間になれ」って願いが込められてるんだろうけど、「大きい宙(そら)」ってスケールでか過ぎだろうと思う。
そんな変わった名前だから、なかなか『たかひろ』なんて読める奴はいない。
誰かがからかい半分に『だいちゅう』って呼び出して、それがこいつの渾名になってしまった。
渾名は可愛いけど、当の『だいちゅう』は少しも可愛くなんかない。
野良猫みたいに荒んだ雰囲気。
鋭い目付き。
笑った顔なんか見たことない。
このクラスになって一月以上経つのに、友達もいないみたいで、一人でいる所をよく見た。
暗くて地味だけど、よく見れば顔は結構いいかも知れない。
でも好みどころかちょっと苦手だった。
こういう何を考えてるのかわからない奴はあんまり好きじゃない。
その『だいちゅう』は窓際の机に座って、ヴァイオリンを弾くポーズのまま、ちょっと気まずそうに私を見てた。
私もじろじろと『だいちゅう』を見返して言う。
「ふーん、『だいちゅう』ってヴァイオリン弾けたんだ」
『だいちゅう』は黙って目を逸らすと、ヴァイオリンと弓を下ろした。
気にしないでくれていいのに、私がいると邪魔みたいだ。
私は小走りで自分の机に駆け寄ると、机の中を覗き込む。
ケータイはやっぱり机の中にあった。
私はケータイをしっかり握り締めると、ドアに駆け寄って『だいちゅう』を振り返る。
「邪魔しちゃってごめんね」
「さっさと行けよ」
多分これが『だいちゅう』との初めての会話だったけど、思った通り素っ気ない奴だ。
カチンと来る。
ささやかな腹いせに、私は近くにあった椅子に腰を下ろして言った。
「せっかくだから一曲弾いてよ。聞いたら帰るから」
「やだ。人に聞かせるために練習してるんじゃねえし」
『だいちゅう』は私と目も合わせずにそう言った。
てっきり吹奏楽部なのかと思ってたけど、違うみたいだ。
「一曲くらいいいじゃん。どうせ廊下で聞いちゃったんだしさ」
「だったらわざわざ聞かなくてもいいだろ」
「でも、ちょっとだけだもん。
『だいちゅう』だって、私がいると練習できなくて困るんじゃないの?」
「『だいちゅう』言うな」
『だいちゅう』はそう言うと、ヴァイオリンをケースにしまい始めた。
よっぽど私に聞かせたくないんだろう。
減る訳でもないのに、ケチな奴だ。
私が机に頬杖を付いて睨むみたいに『だいちゅう』を見てると、『だいちゅう』は挨拶もなしに教室を出て行った。
叩き付けるみたいにドアが閉まって、私のイライラはピークになる。
何だあれ。
邪魔したのは悪かったと思うけど、ちゃんと謝ったんだし、あんな態度取らなくてもいいのに。
ムカつく。
数日後の放課後。
私は足音を忍ばせて、ヴァイオリンの音がする教室のドアに歩み寄った。
弾いてるのはきっと『だいちゅう』だろう。
弾いてるのはこの間と同じ曲で、今日もよく音が外れてる。
いつも教室で弾いてるんじゃないかと思ったら、やっぱりだ。
ここ何日も友達と一度家に帰ってからわざわざ学校に戻って来てた甲斐があった。
できれば学校で待ってたかったけど、私にも付き合いってものがある。
あんまり輪から外れてると、友達を失くすかも知れなかった。
『だいちゅう』みたいにはなりたくない。
それなのに何でこんなことしてるんだろう。
今更だけど、そんな考えが頭を過った。
よく考えてみれば、こんなことしてもいいことなんて何もない。
それどころかトラブルの元にかならないだろう。
『だいちゅう』なんかに関わってるってみんなにバレたら、きっと変な目で見られるだろうし、『だいちゅう』と噂になったりもするかも知れない。
考えるだけでぞっとする。
でもあんな態度を取られると、無理にでも『だいちゅう』に一曲弾かせないと気が済まなかった。
やられたらやり返すのがケンカの基本だ。
『だいちゅう』はそんなつもりじゃなかったのかも知れないけど、とにかく私はムカついた。
絶対ギャフンと言わせてやる。
私がドアを一気に開けると、ヴァイオリンの音が止んだ。
薄暗い教室の中で、『だいちゅう』がびっくりした顔をしてるのが面白い。
「やーっぱりまた弾いてたんだ」
にやりとする私を見て、窓際の机に腰掛けた『だいちゅう』はあからさまにむっとした顔になった。
私から視線を外すと、ヴァイオリンを静かに下ろして言う。
「何しに来たんだよ」
「一曲聞きに来たの。まだ弾いてくれてないでしょ。
わざわざ来たんだから、今日はちゃんと弾いてよね」
「俺は弾くなんて言ってねえ。邪魔すんな」
「そんなに邪魔されたくないんだったら、家で弾けばいいじゃん」
「弾けるもんなら弾いてる。家から近いし、タダだし、ここが一番いいんだ」
「ふーん」
私は気のない声を出した。
『だいちゅう』の家の事情なんかどうでもいい。
「そんなことより、とにかく弾いてよ。いつも練習してるやつでいいからさ」
「やだっつってんだろ。これ大事なんだ。勿体無くて聞かせられねえ」
「ケチ。別に聞かせたってヴァイオリン……」
「減ったりしないでしょ」と言おうとした私を遮って、『だいちゅう』は言った。
「『エリザベス』」
「え?」
「こいつの名前」
『だいちゅう』は軽くヴァイオリンを揺らして見せた。
物に名前を付ける変人に会ったのは初めてだ。
これじゃ友達なんかできる訳ないだろう。
でも『エリザベス』を見る『だいちゅう』の目は優しくて、どことなく幸せそうだった。
『だいちゅう』でもこんな顔をするんだなと、ちょっと感心する。
笑ったことさえなさそうな奴だと思ってたのに、すごく意外だ。
でもこの方がいつもより全然いい。
「ねえ、何でエリザベスなの?」
「ヴァイオリンってお嬢っぽい感じだから」
『だいちゅう』は穏やかな目で『エリザベス』を見つめたまま、目を上げるでもなくそう答えた。
こいつの感性絶対おかしい。
そもそもヴァイオリンは女じゃないだろう。
「ねえ、『だいちゅう』ってシャーペンとか鞄にまで名前付けてる訳?」
「んな訳ねえだろ。めんどくせえ」
『だいちゅう』は馬鹿馬鹿しそうにそう言った。
『だいちゅう』にとって、このヴァイオリンは特別な物みたいだ。
何か思い入れがあるのか、単純に高い物なのかも知れない。
「高いの? そのヴァイオリン」
「『エリザベス』」
しつこい奴だ。
ちょっとイラッとしたけど、大事にしている物をつまらない物みたいに言われたくないのはわかる。
私は渋々言い直した。
「……『エリザベス』って高い訳?」
「知らねえ。伯父さんからの貰い物なんだ」
「へえ、伯父さんもヴァイオリン弾けるんだ。お父さんも弾けたりするの?」
そう訊いた途端、優しかった『だいちゅう』の表情が一変した。
優しさが綺麗に消え失せて、殺気すら感じる険しいそれになる。
まるで別人みたいな変わり様だ。
黙って『エリザベス』を片付け始めた『だいちゅう』を呆気に取られて見ていると、『だいちゅう』は足早に出て行った。
乱暴に閉められたドアが立てた大きな音に、私は小さく首を竦める。
悪いことしちゃったなと、ちょっと反省した。
多分『だいちゅう』にとって、お父さんのことは触れて欲しくないことだったんだろう。
今日はケンカを売るつもりで来たけど、それでもやっぱり言っていいことといけないことがある。
明日にでも『だいちゅう』に謝らないといけないなと思いながら、私は教室を後にした。
次の日。
私はちょっと緊張しながら学校へ行った。
『だいちゅう』が来たら、一言「ごめんね」と謝る。
ただそれだけのことなのに、ちゃんとできるかわからなかった。
何しろ相手があの『だいちゅう』だ。
みんながいる前で近寄って行くのは勇気がいる。
あんな奴に謝るのは口惜しいけど、このまま謝らないのもちょっと気持ち悪かった。
私は『だいちゅう』に謝る自分を何度もイメージしながら、少しぎこちない足取りで階段を上ってく。
三階まで上がって廊下を歩いてると、教室のドアが見えてきた。
思わずごくりと唾を飲み込む。
こうなったらさっさと済ませよう。
私は心にめいいっぱい勢いを付けると、教室のドアを一気に開けた。
一騎打ちを挑む戦国武将みたいな気持ちで『だいちゅう』の席に目をやったけど、そこは空っぽ。
まだ来てないみたいだった。
やる気が力一杯空回りした私は何でまだ来てないんだとムカつく一方、ちょっとほっとする。
でもきっと休みじゃないんだろう。
入学からこっち、『だいちゅう』は多分一度も学校を休んでない。
後で謝らなきゃいけないんだと思うと、また面倒になってきた。
物事ってどんなことでも自分にとってベストなタイミングがあって、それを逃すとはっきり言ってやりたくなくなる。
『だいちゅう』はきっとまた教室でヴァイオリンを弾くだろうから、謝るのはその時でもいいかも知れなかった。
だけどいくら直接話さないからって、あんなことがあった『だいちゅう』に謝りもしないで毎日顔を合わせるのはちょっと気まずい。
おまけに時間が経てば経つ程謝り難くなりそうだった。
でも、一度萎んだ気持ちは簡単には戻らない。
ぐらついた心を定め切れないまま、私はとりあえず自分の机に鞄を下ろした。
いつも通り友達と話してても、気になってドアが開く度につい見てしまう。
『だいちゅう』はなかなか来なかった。
「どうしたの? 何かドアの方ばっかり見てるけど」
「ん、何でもないよ」
私は適当に友達を誤魔化しながら、まだ迷ってた。
でもだんだん先延ばしにする方に気持ちが傾き始める。
やっぱりみんなの目が気になった。
とりあえずその場のノリに任せて、謝れたら謝ろう。
そう決めた時、『だいちゅう』が教室に入ってきた。
誰も挨拶しないし、『だいちゅう』も誰にも挨拶しない。
それでも『だいちゅう』は寂しそうな顔一つせずに自分の席に着いた。
『だいちゅう』の周りだけ、バリアができてるみたいに人がいない。
やっぱり友達はいないみたいだ。
それからも時々『だいちゅう』を目で追ってたけど、『だいちゅう』はいつ見ても一人だった。
やっぱり誰もいない教室じゃないと謝れそうになくて、私は毎日放課後の教室に通うことにした。
でも『だいちゅう』は私を避けてるみたいだ。
その週はとうとう『だいちゅう』に会えなかった。
私は仕方なく土日も学校に行くことにして、日曜日の教室でやっと『エリザベス』を練習中の『だいちゅう』に会えた。
『だいちゅう』は心底嫌そうな顔で私を見ると、尖った声で言う。
「また来たのかよ」
相変わらずの態度でやっぱりムカつくけど、私は怒ったらいけないと自分に言い聞かせた。
一応謝りに来たんだから、ケンカを売るのはまずい。
私は心の中で大きく深呼吸して怒りをやり過ごしてから、思い切って言った。
「この間はごめんね」
「……別に」
『だいちゅう』は私から逸らした視線を『エリザベス』に落とすと、落ち着きなく弄り始めた。
「いい加減俺に付き纏うのやめろよ。すげえ鬱陶しい」
「だったら一曲弾いてよ。それで私の気が済むんだって言ってるじゃん」
「前にも言っただろ。やなんだよ。デリカシーねえな」
『だいちゅう』はあくまで頑なで、しかも口が悪かった。
何でここまで言われないといけないんだろう。
さっき謝ったばかりだけど、ちょっとキレそうになる。
「『エリザベス』弾いてって言ってるだけじゃん。
何でデリカシーどうこう言われないといけない訳?」
「『エリザベス』、俺の彼女だから」
「へえ」
よっぽどヴァイオリンにハマッてるんだなあと思っていると、『だいちゅう』が一層冷たい目で私を見た。
「藤村、ぜってー俺の言ってることわかってねえだろ」
「はあ? 音楽が恋人とか、そういう感じの話なんじゃないの?」
「全然違う。『対物性愛者』って聞いたことねえ?」
たいぶつせいあいしゃ。
初めて聞く言葉で、私にはさっぱり意味がわからなかった。
「どういう字書くの?」
『だいちゅう』は『エリザベス』と一緒に黒板に歩み寄ると、チョークを摘んで黒板に『対物性愛者』と書いた。
全然知らない言葉だけど、字面から物が好きな人のことだってことくらいはわかる。
それもただ好きって訳じゃなさそうだ。
『だいちゅう』が本当に『対物性愛者』ってやつなら、多分『エリザベス』とキスとかそれ以上のこともしたいと思ってるんだろう。
だとしたら、『だいちゅう』が私の前で『エリザベス』を弾きたがらないのも納得だ。
『だいちゅう』からすれば自分が触ってる『エリザベス』が上げる声なんて、とてもじゃないけど聞かせられないだろう。
『だいちゅう』が『エリザベス』といちゃついてるところをリアルに想像して、私はちょっと気持ち悪くなった。
「これでわかっただろ。もう俺に近付くな」
『だいちゅう』は『エリザベス』を片付けると、走って教室を出て行った。
私は一人で帰り道を歩きながら、さっき『だいちゅう』に言われたことを考えてた。
「『エリザベス』、俺の彼女だから」
「『対物性愛者』って聞いたことねえ?」
あれって本当なんだろうか。
彼女がヴァイオリンなんて、普通に考えたら冗談に決まってる。
でもさっきの『だいちゅう』はとてもふざけてるようには見えなかった。
この間らしくないくらい優しい目で『エリザベス』を見てたし、『対物性愛者』なんて難しい言葉も知ってたし、本当なのかも知れない。
でも本当だったとしたら、『だいちゅう』はどうして私なんかにあんな話をしたんだろう。
私を振り切るためにしたって、リスクが大き過ぎる。
言い触らされたりしたら、イジメられるかも知れないのに。
本当に何考えてるんだか全然わからない。
私はとりあえず、『対物性愛者』って言葉を調べてみることにした。
『だいちゅう』の出まかせじゃないとも言い切れない。
私はケータイを開いてネットにアクセスすると、『対物性愛者』と打ち込んで検索ボタンを押した。
半信半疑だったけど、そういう言葉はちゃんとあるみたいだ。
たくさんのページがヒットする。
一番上に出てきた『対物性愛』っていうページを開くと、短い説明文が目に飛び込んできた。
対物性愛とは人間や動物などの命あるものにではなく、
建物や物に愛情を抱き、性的に惹きつけられる性的倒錯の一種。
私は難しい顔になった。
大体予想通りのことが書いてあったけど、これだけじゃよくわからない。
病気みたいなものなのかなと思いながら、私はすぐ下に出てる概要を読み始めた。
幼児期に虐待を受けたり、
人間関係で挫折したりすると人間に対して愛情を抱くことができなくなり、愛情を物に向ける。
対象となるものはおもちゃの列車、オルガン、海底油田の掘削装置、建物、コンピュータ、車などさまざまである。
しかし今のところ米国精神医学会などでは認知されていない。
ざっと文章を浚ってから、私はネットの接続を切った。
今まで物を見てどきどきしたことなんてなくて、全然ピンと来ない説明だったけど、とにかく『対物性愛者』に心に深い傷を負った人が多いのはわかった。
きっと『だいちゅう』も、そんな一人に違いない。
原因は多分虐待だ。
そうじゃなかったら、お父さんって言葉にあんな反応はしないだろう。
虐待されてなかったとしても、とても愛されてるとは思えない。
おまけに人を寄せ付けないあの態度。
わざとなのか無意識なのか、傷付けられる前に傷付けることで自分を守ろうとしてるみたいだ。
もしかしたらもっと投げやりに、傷付けられてもいいなんて思ってるのかも知れない。
そうでなかったら、きっと私にあんな話はしないだろう。
ヴァイオリンを彼女にしちゃうくらい寂しがり屋の癖に、何を強がってるんだか、本当にどうしようもない馬鹿だ。
だから、そう言ってやろうと思う。
ここで引き下がったら『だいちゅう』の思うツボだし、そんなのは全然私らしくなかった。
「よしっ!」
私は頬を軽く叩いて、自分に気合を入れた。
何日かが経った放課後。
私は『だいちゅう』が『エリザベス』を弾いてる教室に乗り込んだ。
たどたどしいメロディが止んで、こっちを睨んでくる『だいちゅう』と視線がぶつかる。
でも電気が付いてない教室は薄暗くて、迫力は三割減だった。
もしかしたら、『だいちゅう』は『エリザベス』といい雰囲気を作ろうとしてたのかも知れないとふと思う。
相手がヴァイオリンでも気持ち悪くて、私は電気を付けた。
『だいちゅう』は眩しそうに瞬きしながら、迷惑そうに言う。
「エリザベスなら弾かねえぞ」
『だいちゅう』は先手必勝のつもりだったんだろうけど、その一言を私は余裕で受け流した。
「あっそ。別にいいよ。今日は他の用事があるんだ」
「用事?」
眉を寄せた『だいちゅう』に、私は後ろ手にドアを閉めて尋ねた。
「あのさあ、『だいちゅう』って本気で『エリザベス』が好きなの?」
「そうだっつっただろ」
「『エリザベス』も『だいちゅう』のこと好きな訳?」
「だから彼女なんだよ」
「でも、そんなの『だいちゅう』の都合のいい思い込みでしょ」
そう言った途端、『だいちゅう』は凄い目付きで私を睨んだ。
怖くないって言うと嘘になるけど、『だいちゅう』に嫌われるのなんてどうってことない。
私は言ってやった。
「バッカみたい。 『だいちゅう』が好きな『エリザベス』なんて子はどこにもいないんだよ」
人に深く傷付けられた『対物性愛者』は、人じゃなくて物を愛する。
多分物は裏切らないから、人は愛せなくても物なら愛せるってことなんだろう。
寂しい理屈だと思う。
おまけに虚しい。
ヴァイオリンはヴァイオリンでしかないのに。
それでも『だいちゅう』が『エリザベス』なんて名前を付けてるのは、
『エリザベス』に人間みたいな性格や心を感じてるからだろう。
でもそんなのは只の勘違い――錯覚でしかない。
きっと『だいちゅう』が本当に愛してるのは、『エリザベス』じゃなくて自分だ。
「物と恋愛ごっこするくらいなら、人と恋愛すればいいじゃん。
『だいちゅう』にとっては大変なことなのかも知れないけど、『だいちゅう』見てるとすっごくイライラする。
態度悪いしさ。八つ当たりでもしてるつもりな訳?
『だいちゅう』にもいろいろあるんだろうけど、そんなの全然理由にならないんだからね!」
今まで溜まりまくってたムカムカが一気に出てきて、私は早口でそう捲くし立てた。
『だいちゅう』のことをよく知ってる訳じゃないのに、こんなことを言うのは間違ってるのかも知れない。
『エリザベス』を好きなのだって別に悪いことじゃないし、『だいちゅう』の勝手だ。
でもどうしても言わないと気が済まなかった。
友情でも愛情でも同情でもなく、ムカつくんだから仕方がない。
てっきり『だいちゅう』はすぐに何か言い返してくるだろうと思ってたけど、黙りこくったままだった。
多分とんでもなく怒ってるんだろう。
もしかしたら手が出たりするかも知れない。
私が身構えてると、『だいちゅう』はしばらくして言った。
「……藤村ってお節介だな」
その声はとても静かで、私は目をぱちくりさせた。
すっごく意外な反応だ。
「ムカついたから、言いたいこと言っただけだよ」
何だかよくわからないけど、すっきり終われそうだ。
私は指を組んで大きく伸びをしながら、気分良く続けた。
「一応気も済んだし、もう来ないから好きなだけ練習すれば? じゃあね」
踵を返して教室を出ようとした私の背中に、 『だいちゅう』が声を掛けてきた。
「おい」
振り返ると、『だいちゅう』があさっての方向を見たまま言う。
「悪かったな」
まさか『だいちゅう』に謝られるとは思ってなくて、私はきょとんとする。
私の言葉がちゃんと『だいちゅう』に届くなんて思わなかった。
どうせ私が何を言ったって、『だいちゅう』は聞かないだろうと思ってたのに。
私がただ黙って『だいちゅう』を見てると、『だいちゅう』はヴァイオリンの腕前が口に移ったみたいな口調で言った。
「俺、誰にでもこんなんで……別に、藤村が悪い訳じゃねえ、から」
「もういいよ。私も良くなかったし。まあ、どっちかって言うと、『だいちゅう』の方が悪いと思うけどね」
「『だいちゅう』言うな。『たかひろ』だ」
「何? 『たかひろ』って呼んでいいの?」
何気なくそう訊くと、『だいちゅう』は急に黙り込んだ。
何だか誤解されてる気がするけど、『だいちゅう』にとってはいいことの筈だから、私は余計なことは言わないでおくことにした。
代わりに別のことを言ってみる。
「あのさ」
「ん?」
「これから会ったら挨拶くらいしてあげるから、『だいちゅう』もしてよね。無視しないでよ」
そう言いながら、私はちょっぴり後ろめたい気持ちになった。
もしかしたら、私は『だいちゅう』にとんでもなく酷いことをしたのかも知れない。
私にできるのはこれくらいだし、これ以上のことをするつもりもなかった。
ただ気が向いたからやっただけ。
野良猫へのエサやりみたいなものだ。
でも理由はともかく、『だいちゅう』が人と関わるのは悪いことじゃないだろう。
きっとそうだ。
「じゃあね、バイバイ」
「また明日な」
私は『だいちゅう』に軽く手を振って教室を出た。
※ 本文中の『対物性愛』に関する説明は、「対物性愛―Wikipedia」より引用しました
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E7%89%A9%E6%80%A7%E6%84%9B)
尚、主人公の対物性愛への考察は学問的根拠に基づくものではありません