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私が逆さまになれる場所

46.2kg。
そのデジタル数字を見下ろした私は、ほっとして体重計から下りた。
ちょっと前にニュースで「立冬です」って言ってただけあって、さっき脱いだスリッパは早くも冷たくなりかけてる。
スリッパ越しにも床の冷たさが伝わってくるみたいだった。
体重計を信用してない訳じゃないけど、私は視線を下に落としたまま、スリッパを履いた足からくるぶしにかけての線をまじまじと眺めた。
むくんだり太ったりすると、
くるぶしの辺りのきゅっとした線が出なくなるからすぐにわかるけど、今の私の足はきちんとその線を描いてる。
昨日ケーキバイキングでドカ食いしたから、平気で一キロくらい増えてそうで心配だったけど、取り越し苦労だったみたいだ。
昨日出掛ける前に量った時はもう〇.二キロ軽かったけど、今と同じで服を着たまま量ったから、多分重くなったのは服のせいだろう。
きっとそうだ。
今日着てるのは、昨日より厚手のセーターだし。
もしセーターのせいじゃなくても、〇.二キロくらいなら変わってないようなものだった。
私が大満足で体重計を片付けてると、後ろからお兄ちゃんの声が掛かる。

「何、また体重計乗ってんの? もしかして太った?」
「あのねえ、私はお祖母ちゃん似なの! お母さんと違って、食べても太らない体質なの!
これは単に理想体重をキープできてるか確かめてるだけなんだからね!」
「ふーん」

お兄ちゃんは全然信じてないのが丸分かりの口調でそう言った。
私は振り返ると、洗面所のドアに寄り掛かったお兄ちゃんを軽く睨む。
お兄ちゃんは私の三つ年上の大学一年生だ。
私より頭半分くらい高い背は、極端に高くも低くもない。
項が隠れるくらいに伸ばした髪を茶色く染めてるけど、小まめに染めに行ってる訳じゃないから根元が黒かった。
実のお兄ちゃんながらなかなか整った顔立ちは知的で、コーヒーをブラックで飲むのが好きそうな感じだけど、その実大の甘党だ。
私も甘い物は好きだけど、お兄ちゃんみたいにわざわざ生クリームを泡立ててそれだけ食べたりはしないし、ココアに砂糖を何杯も入れて美味しそうに飲んだりもしない。
普通の人が一生に食べる砂糖を軽く食べ切ってるようなお兄ちゃんだけど、
太ってるどころか細いくらいで、ほっそりしたジーンズがよく似合った。
その大きな手には、フォークとショートケーキの乗ったお皿。
昨日一緒に行ったケーキバイキングのお店で買ってきたケーキだ。
私は昨日の内に自分の分は食べちゃったけど、お兄ちゃんは楽しみを後に取っておく主義だから、今日まで残してた。
多分自分の部屋に行く途中だったんだろうけど、お兄ちゃんはドアに背中を預けたままケーキにフォークを入れる。

「女って何でみんなそう体重気にするかねえ。その癖ケーキバイキングに行ったりするし、訳わかんねえ」
「そんなだから彼女いない暦=(イコール)生きてきた年数なんだよ。
何回言っても靴下裏返して洗濯機に入れるしさ。一昨日またやったでしょ。干す時大変なんだから、裏返さないでって言ってるのに」
「あー、悪い悪い。これでも一応気を付けてるんだけどなあ」

もう何度も聞いた台詞は反省の色ゼロだった。
お兄ちゃんがそういう態度なら、こっちにも考えってものがある。
私はお皿のケーキを掴むと、大口を開けて齧り付いた。

「ちょ、何すんだよ! この泥棒ネコー!」
「ふぉーっふぉっふぉっふぉっふぉ!」

私はケーキを口に入れたまま高らかに笑うと、頬張ったケーキを飲み込んで言った。

「迷惑料だよ。ご馳走様」
「てめえ……それとこれとは別問題だろーが! 返せ!」
「えー、こんな手形と歯型がばっちり付いたケーキ食べたいのぉ? はい❤」

私が食べかけのケーキをお皿に戻すと、
お兄ちゃんはあちこち変形しまくったケーキを見下ろして泣きそうな顔になった。

「……やっぱいい」
「じゃ、もーらい!」

残りのケーキを平らげて手を綺麗にすると、私はしょぼくれたお兄ちゃんを残して洗面所を出た。
ふと腕時計を見ると、余裕だった筈の待ち合わせ時間まで五分もなくなってる。
待ち合わせ場所に一番近くに住んでるのに、遅刻する訳には行かなかった。
私は慌ててリビングに置いてあったコートを羽織ると、バッグを手に取る。
タイツに包まれた足をブーツに突っ込んでいると、ケーキを失くした悲しみから立ち直ったらしいお兄ちゃんが玄関まで見送りに来てくれた。

「今日、部活のみんなとカラオケだっけ?」
「うん、ちょっと遅くなるかも。悪いけど、急ぐから鍵閉めといてね。行って来まーす!」

私はドアを開けると、寒いと思う間もなく玄関脇に止めておいた自転車に飛び乗った。
そのまま勢いよくペダルを踏み込む。
待ち合わせのカラオケボックスまでは五分くらいだ。
飛ばせば三分くらいで着くだろう。
壊れるんじゃないかと思うくらいの速さで、私は自転車を走らせた。
寒さのせいで、風を切る頬が少し痛い。
溶けてく景色を後ろに流しながら自転車を飛ばしていると、いきなり横から甲高いブレーキの音と衝撃が来た。
あ。
と思った時から、目に映る全てが急にゆっくりになる。
頭はひどく冷静に状況を理解していて、何かしなくてはいけないと思うのに、自転車から投げ出された体は宙に浮くばかりで指一本動かない。
そのままずっと飛んでいられそうな気がしたけど、重力が私を逃す訳なかった。
落ちていく。
でもそれはひどくゆっくりで、現実感がまるでない。
夢を見てるみたいだった。
もしかしたら本当に夢を見てたのかも知れないけど、アスファルトに叩き付けられた痛みで否応なく現実に引き戻される。
痛みで朦朧とする意識の中で、私はただ空を見上げていた。
今にも破れてしまいそうな、ひどく淡い色の空。
それが、私の見た最後のものだった。

 

 

入院が長引く程の怪我はしなかったけど、事故が原因で私は光を失った。
お医者さんが言うには、頭を強く打ったことで両目の視神経というやつを駄目にしてしまったらしい。
世の中には絶望的な状況でもほとんど無傷で助かった人だっているって言うのに、我ながらうんざりする運の悪さだった。
あの時、どうしてもっと上手く転べなかったんだろう。
どうしてあの道を通ったりしたんだろう。
あの道に車が来てたんだろう。
今更悔やんでもどうにもならないけど、
どうにもならないことが起こってしまったからこそ後悔は尽きなかった。
目を開けても閉じても見えるのは暗闇だけで、物の在り処どころか時の移り変わりさえわからない。
せめてこの見えない目で見える色が、黒じゃなくて白だったら良かったのに。
これじゃ文字通りお先真っ暗だ。
退院して家に戻った私は体重計に乗らなくなったし、洗濯物を干すことも、裏返った靴下のことでお兄ちゃんに文句を言うこともなくなった。
友達とも遊ばなくなった。
学校にも行かなくなったし、行けなくなった。
盲学校に行こうとも思わなかった。
今じゃ法律が変わって、盲学校は聾学校や養護学校と一緒に「特別支援学校」になってるそうだから、特別支援学校って言うべきなんだろうけど。
でも聴覚障害の人達は「聾」っていう言葉に自分達のアイデンティティーを見出してて、改名に反対したりしてたりするんだってお兄ちゃんが教えてくれた。
どうして人より能力が足りないことをアイデンティティーにしようなんて思えるんだろう。
私は絶対そんな風には思えない。
目が見えなくなってから、今まで当たり前にできてたことが何一つできなくなって、ご飯を食べることさえ一苦労で、自分がひどく惨めで仕方なかった。
お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、みんないつも通りに接してくれたけど、私はとてもみんなみたいには振る舞えなかった。
光と一緒に、事故に遭う前の自分まで失くしてしまったみたいだった。
私は部屋に閉じ篭ったまま、毎日何もせずベッドの上で過ごした。
何かしようと思うと、何もできなくなってしまった自分をどうしても意識してしまうから、何もしたくなんてなかった。
点字を勉強するとか白杖の使い方を覚えるとか、やらなければならないことはたくさんあるのに、何もする気がしなかった。
ただ静かに呼吸だけを繰り返して、私は自分が死ぬ日を待っていた。
そんな日が暫く続いたある日、お兄ちゃんがノックもなしに部屋に入ってきて言った。

「なあ、友達にいい店があるって聞いたんだ。行ってみねえ?」
「……行かない。どうせ何にも見えないんだし」
「見えなくても味はわかるだろ? もうすぐ昼だし、飯食いに行こう。奢るからさ」

お兄ちゃんは私の腕を引いて、私を強引に布団から引き摺り出した。
お兄ちゃんが力尽くで自分の要求を通そうとするなんて、多分初めてのことだ。
今までお兄ちゃんに叩かれたこともなかったから、私はとにかくびっくりして、そこまでして連れて行きたいなら行ってもいいかなと思った。
それに行くって言わないと、ベッドから落とされそうだ。
私は必死でシーツに掴まりながら、悲鳴みたいな声で言う。

「ちょ、わかった! 行く! 行くから用意くらいさせて!」
「あ、うん。そうだな」

お兄ちゃんの手が離れると、私は漸く落ち着いてベッドに座り直した。
お兄ちゃんの手を借りて用意しなければいけないと思うと、出掛けようって気持ちが早くも萎えそうになったけど、
お兄ちゃんが私を心配して連れ出そうとしてるのもわかるから、我慢することにする。

「じゃあ、着替えるから、チェックのワンピースとクリーム色のカットソー出して」
「わかった」

お兄ちゃんがそう言ってすぐに、クローゼットを開ける音がした。
次にがちゃつくハンガーと衣擦れの音。
ベッドに置かれた服が、布団を小さく揺らした。

「服、ベッドの上に置いたから。着替え終わったら呼べよ。外で待ってるから」

お兄ちゃんがそう言い置いて出て行くと、私は手探りで服を探し当てた。
ちょっと時間はかかったけど、どうにか着替えを終える。
脱ぎ捨てたパジャマをそのままに、私はお兄ちゃんを呼んだ。

「終わったよ」

ドアが開く音を聞きながら、私はベッドから下りて記憶を頼りにドレッサーに向かって歩き出す。
闇雲に手を彷徨わせていると、その手をお兄ちゃんに掴まれた。

「何探してんの?」
「ドレッサー。髪梳かしたくて」
「ならこっちだ」

私はお兄ちゃんに手を引かれるままに歩いて、ドレッサーの前の椅子に座らせてもらった。
少し苦労して引き出しを探し当てると、中から櫛を取り出して髪を梳き始める。
こんな風に髪を梳かすなんて久し振りで、少し変な感じがした。
ほんのちょっと前まで毎日してたことなのに。

「ねえ、寝癖付いてない?」
「別に平気だけど?」
「そっか」

目が見えないって本当に不便だ。
寝癖が付いてるかどうかもわからない。
見えない鏡の前で、私は静かに櫛を動かし続けた。

 

 

身支度を整えた私は、お兄ちゃんに連れられて家を出た。
バスに乗ってたのは駅までの十分くらいだったけど、電車には随分長く乗ってた気がする。
名前も聞いたことがない駅で降りたお兄ちゃんは、「駅からそんなに遠くないから」と言って歩き出した。
そのお兄ちゃんの肘の少し上に掴まって、私は半歩後ろを歩いてく。
お兄ちゃんは目の見えない人との歩き方を勉強したみたいで、こうやって歩くのがいいんだと言った。
お兄ちゃんが「右に曲がるよ」とか「段差があるから」とか、丁寧に誘導してくれるから私はとても助かったけど、一人だとまともに歩けもしないのはやっぱり口惜しい。
時間が経てば経つ程、お兄ちゃんに頼らなくちゃいけないのが嫌になって、「もう帰ろう」って言葉が喉元まで出掛かった時、お兄ちゃんが言った。

「着いたよ。階段あるから気を付けて」
「……うん」

私がそろそろと階段を上がると、お兄ちゃんがドアを開ける気配がした。
ドアに付けられてたらしいベルがからんと大きく音を立てて、私達が来たことをお店の人に知らせる。
お店の中に入ると、ベルの音の余韻が消えない内に、奥からゆったりした足音が近付いてきた。
そんなに重くないから、多分ウェイトレスさんだろう。

「何名様ですか?」

そう問いかけてきた声は、やっぱり女の人のものだった。
多分中年くらいだろう。
おっとりした柔らかい声に、お兄ちゃんが答える。

「二人です」
「では、こちらへどうぞ」

奥へ向かい始めたウェイトレスさんの足音を追って、お兄ちゃんが歩き始めた。
でもすぐに先を行く足音は止まって、お兄ちゃんと私も足を止める。
部屋が区切られてるみたいで、奥の部屋からはくぐもった静かな音楽と何人かの話し声が聞こえてきた。

「目が慣れるまで、ここで少々お待ち下さいね」

目が慣れる?
どういうことだろう?
訳がわからなくて、少し不安になった。

「……ねえ、ここってどういうお店なの?」

怖々お兄ちゃんにそう尋ねると、お兄ちゃんが答えるより先にウェイトレスさんが問いかけてきた。

「あら、初めての方ですか?」
「はい」

ウェイトレスさんはくすりと笑った。

「じゃあ、びっくりされたでしょう。ここは『暗闇レストラン』なんですよ」

 

 

ウェイトレスさんの案内で、私達は二人掛けのテーブルに通された。
でも流石『暗闇レストラン』だけあって、その案内からしてちょっと変わってる。
お兄ちゃんが言うにはお店は本当に真っ暗だそうだから、「ご案内致します」なんて言われて他のお店と同じように案内されても、とてもテーブルまで辿り着けない。
お兄ちゃんがウェイトレスさんの肩に掴まって、そのお兄ちゃんの肩に私が掴まって、幼稚園のお遊戯みたいに一列になって案内してもらった。
ウェイトレスさんはどこにあるか全部覚えてるみたいで、他のテーブルにぶつかったりすることなく私達を案内してくれた。
席に着いたら着いたで、真っ暗な中でメニューなんか読める訳がないから、注文するものを選ぶにもやっぱりウェイトレスさんが欠かせない。
お水を持ってきてくれたさっきのウェイトレスさんに尋ねると、メニューを一通り教えてくれた。
この『暗闇レストラン』はイタリア料理のお店みたいだけど、デザートと飲み物を除いたメニューは五つしかない。
どうしてこんなにメニューが少ないんだろうと不思議に思いながら、私は完熟トマトのリゾットを、お兄ちゃんはかぼちゃのクリーミーパスタを選んで注文した。

「ご注文は以上でよろしいですか?」
「はい」
「畏まりました。他にも御用があれば遠慮なくお呼び下さいね。
私は斎賀(さいが)と申します。呼び鈴はありませんから、直接声をお掛け下さい」

斎賀さんはそう言い置くと、ゆっくりとした足音と一緒にテーブルから離れて行った。
一々ウェイトレスさんが名乗る店っていうのも珍しいけど、真っ暗だと誰がどこにいるか言わないとわからないからだろう。
部屋を出入りする度に「ウェイトレスですよ」なんて言うのも何だか馬鹿みたいだし。
辺りに耳を澄ましてみると、ウェイトレスさんには他にも真堂(しんどう)さん、神崎(かんざき)さん、水無月(みなづき)さんっていう人がいるらしかった。
ここにいるお客さんは多分みんな目が見える人達なんだろうけど、
真っ暗じゃ何をするにも斎賀さん達の助けが必要みたいで、戻ってきた彼女達が名乗る度にあちこちから声が掛かる。
何だかアットホームな感じのお店だなあと思っていると、テーブルに置いてた私の手にお兄ちゃんのそれが触れた。

「どうかした?」
「あ、悪い。ちょっと水取ろうと思ったんだけど」
「もうちょっとそっちじゃない?」
「そっちってどっちだよ」
「だから、お兄ちゃんの方」
「うーん、うっかり手ぇ振り回すとグラス、かなあ? 倒しそうだし」
「しょうがないなあ」

テーブルの上で手を滑らせた私は、水の入ったグラスを探り当てると、コースターごとお兄ちゃんの方に押しやった。

「見付かんないなら、これ飲んでいいよ。私、お兄ちゃんのもらうから」
「有難いけど、お前の水がどこにあるかもわかんねえ」
「ここだよ、ここ」
「だからわかんねえって」
「もう、ちょっと手出して」

私はお兄ちゃんの手を見付けると、グラスに触らせた。

「お、あったあった。サンキュ」

何気ないその一言に、私は思わずきょとんとした。
お兄ちゃんにお礼を言うことはあっても、もうお礼を言われることはないだろうと思ってたから。
何となくだけど、お兄ちゃんが私をここへ連れてきた訳がわかった気がした。
お兄ちゃんのあったかい手がグラスと一緒に離れて行くと、あのゆったりした足音が近付いてきた。
斎賀さんの声がする。

「お待たせしました。
完熟トマトのリゾットとかぼちゃのクリーミーパスタをお持ちしましたよ」
「あ、リゾットこっちです」

私がそう言うと、すぐ側にリゾットのお皿とスプーンが置かれる音がした。
次いでパスタの載ったお皿とフォークがテーブルに触れる音が聞こえてくる。
音が一つ多かったから、多分スプーンも置いてくれたんだろう。

「ご注文の品はお揃いですか?」
「はい」
「では、どうぞごゆっくり」

斎賀さんの足音が小さくなると、私は音がした辺りに手を伸ばしてスプーンを手に取った。
でもお兄ちゃんはなかなかフォークが見付けられないみたいで、情けない声を出す。

「フォークどこだよー」
「早くしないと冷めちゃうよ」
「わかってるって。あ、これだ」

お兄ちゃんはやっとフォークを握れたみたいだけど、今度はお皿が見付からないらしい。

「なあ、皿ってどこ?」
「どこって、目の前にあるでしょ。見えないだけで」

お兄ちゃんが食べられるまで待ってようかと思ったけど、付き合ってられなくなって、私はリゾットを一口食べた。
トマトの仄かな酸味が口の中に口の中に広がる。

「おいし」
「そっか、良かったな。俺も食いてえ……お、これだなパスタ!」
 
お兄ちゃんは声を弾ませたのも束の間、激しく苦悩して言った。

「ぐおおお! パスタが巻けねえ!」
「あー、見えないと麺類って食べるの難しいんだよねえ。滑るし。
お兄ちゃんもリゾットにすれば良かったのに」
「うーん、失敗したかなあ……」

お兄ちゃんがパスタに悪戦苦闘していると、斎賀さんとは違う重い足音が近付いてきた。
知らない男の人の声が言う。

「失礼」

落ち着いたいい声。
結構年が行った感じだけど、張りがあっていい声だった。
声がいいからって顔もいいとは限らないけど、何となくロマンスグレーなおじ様を想像してると、男の人が紳士的に続ける。

「突然お邪魔をしてすみません。
初めまして。私はこの店のオーナーをしている者です。お食事はお楽しみ頂いていますか?」
「はい、変わってて面白い店ですね」

お兄ちゃんの声を聞きながら、私は確かに変わった店だなあとしみじみ思った。
食事中にオーナーさんに話し掛けられるなんて、これが初めてだ。
型破りなお店だけあって、オーナーさんから型破りなんだろう。
その面白そうなオーナーさんは、小さく笑みを漏らして言った。

「只の思い付きで始めた店ですが、皆さんに気に入って頂けているようで嬉しい限りです」
「思い付き、ですか?」
「ええ、私は目が見えないものですから」
「オーナーさんもですか」

私が思わずそう言うと、オーナーさんの声に微かな驚きが混じった。

「では、あなたも目が?」
「はい。見えなくなったのは、割と最近ですけど」
「そうですか……今が一番大変な時ですね」
「そうでもないです。点字の勉強とかはしてないんで」
「今はまだ、そういう気持ちになれませんか?」
「はい……」

今のままがいいなんて思ってる訳じゃないけど、気持ちの切り替えにはまだ時間がかかりそうだった。
もしかしたら切り替わらないまま、死んだように私は生きて行くのかも知れない。
目が見えないのにこのお店を始めたオーナーさんから見たら、私なんて凄く駄目な奴だろうけど、オーナーさんはどこまでも優しい声で言った。

「私も光を失った時、暫くは何をする気にもなれませんでした。
光だけでなく仕事まで失って、すっかり自信を失くしてしまったんです。
自分が人間として、ひどく劣った存在になってしまったような気がしたんですね。
目が見えていた時には簡単にできていたことのほとんどが、ひどく難しいことになってしまった訳ですから。
ですが、私は思ったんです。
目の見える人と張り合うのではなく、自分のような目の見えない人と見える人との立場を逆転させられる場所を作ればいいと」
「それで『暗闇レストラン』、ですか」
「はい。ここのスタッフの三分の二は、私と同じ視覚障害を持つ人達です。
ちなみにウェイトレスは全員視力がありません」
「え!? そうなんですか!?」

びっくりした。
白杖を付く音もしなかったし、てっきり斎賀さんは目が見えてるものだとばかり思ってたから。
でもよく考えてみれば、目の見える人が真っ暗闇の中でウェイトレスをするのはかなり難しいだろう。
映画とかでよくある赤外線スコープでも付けてれば話は別だろうけど、そんな高そうなものを付けてまでウェイトレスしてるとも思えない。

「全然気が付かなかったです。凄いですね」
「皆さんよく驚かれますが、練習と目の見える人のほんの少しの手助け次第で、私達は目の見える人と同じように働くことができるんですよ。
見えなくても彼女達は立派に労働し、その労働に見合った報酬を受け取っています。
ですからどうか忘れないで下さい。
あなたは確かに目が見えませんが、そのことで自分を卑下することなどないのだということを」

祈りの篭ったその言葉が、じんわり心に染みた。
オーナーさんの言う通りだ。
目が見えなくなったからって、私は何もできなくなった訳じゃない。
さっきだってお兄ちゃんに水を渡してあげられた。
今までは、ただ何もしようとしなかっただけ。
ちょっと時間はかかるかも知れないけど、練習すれば前みたいに洗濯物したり、靴下を干したりすることもできるだろう。
またお兄ちゃんに靴下が裏返ってるって文句を言うことだって、きっとできる。
光を失くしても、私は私そのものまで失くしてしまった訳じゃない。

「ありがとう、ございます」
「いいえ、私の方こそお相手して頂いて楽しい時間を過ごすことができました」
「あの、良かったらまたお話したいんですけど、オーナーさんはいつもこのお店にいるんですか?」
「いつもではありませんが、できるだけいるようにはしていますね。
店の様子も知りたいですし、見える人に見えない人のことをわかって頂きたくて、時々こうしてお話させて頂いているんですよ。
まあ、気休め程度にしかなりませんが」
「そんなことないですよ。
この店目の見えない人の世界をちょっとだけ体験できるようになってますし、いい試みだと思います」

お兄ちゃんがそう言うと、オーナーさんの笑みが小さく空気を揺らした。

「そう言って頂けると励みになりますね。
長い話に付き合わせてしまって申し訳ありませんでした。では、私はこれで」
「あ、あの!」

ちょっと迷ったけど、呼び止めちゃったらもう後には引けない。
私は思い切って続けた。

「このお店、バイトとか募集してないですか?」
「アルバイト、ですか?」
「はい。私目が見えなくなってからまだそんなに経ってなくて、働けるようになるまでちょっと時間かかっちゃうかも知れないんですけど、やり甲斐があって楽しそうだなあって思ったんで」

いきなりバイトはハードルが高い気がしたけど、
目の見えない私が目の見える人に頼られる場所なんてそうはないだろう。
ここがすっかり気に入ったから、できれば毎日でも来たい。
でもいつ頃働けるようになるかは全然わからなかった。
何しろ一人じゃ出歩けもしないんだから。

「あの、やっぱり駄目ですか……?」
「そんなことはありませんよ。
今のところアルバイトは募集していませんが、もうすぐ二号店が開店するんです。
やる気のある人は大歓迎ですよ。
店のメニューとお客様の注文とテーブルの配置を覚えるだけですから、点字が読めなくても支障はありませんし、都合のいい時にご連絡下さい」

そう言われて、ちょっとほっとした。
結構難しそうだけど、点字を覚えなくていい分、まだできそうな気がする。
これなら送り迎えさえしてもらえればどうにかなりそうだった。

「ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。電話番号などはおわかりになりますか?」
「あ、えーと……」

困っていると、お兄ちゃんが助け舟を出してくれた。

「後で教えてやるよ。確かネットに出てたから」
「ではお願いします。またお会いしましょう」

私が遠ざかる足音の方に顔を向けてオーナーさんを見送ってると、お兄ちゃんがちょっと心配そうな声で訊いてきた。

「なあ、お前ここでバイトするって本気?」
「本気だよ。オーナーさんもいい人みたいだし、すっごい気に入っちゃった」
「だからっていきなり過ぎだろ。あんな引き篭もりみてえな生活してるより全然いいけどさ」
「でしょ? ちょっと元気付けたいから、デザート頼んでもいいよね?」

怒られるかなと思ったけど、お兄ちゃんは怒るどころか笑った。

「いいよ。今日だけは許す」
「じゃあ、チョコレートケーキとフルーツタルトとミルフィーユね」

私は今日一日のいろんな「ありがとう」の代わりにそう言った。
改まった感謝の言葉なんて、とても言えない。

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