彼の彼女はヴァイオリン
放課後になってから三十分以上経ってた。
帰宅部はみんなとっくに帰って、それ以外の奴は部活の真っ最中。
廊下にいるのは私一人だった。
春の夕方はまだ始まったばかりで、四角い窓に切り取られた夕日がたっぷりと廊下に注ぎ込んでる。
夕日と蛍光灯の明かりで光るタイルを軽く蹴って、私は鞄と一緒に走った。
運動部の声や吹奏楽部の演奏が遠くから響いてても、目に見える所には誰もいない。
おまけにここは怪談だらけの学校だ。
お化けなんか信じてる訳じゃないけど、一人だとちょっと怖かった。
早く忘れ物を取って帰ろう。
私は足を速めて階段を駆け上がった。
本当なら今頃家に着いてる筈だったのに、一人でこんな所にいるなんてひどく惨めな気分だ。
でもケータイを学校に忘れたら取りに戻るしかない。
明日はまた学校があるけど、ケータイが一晩手元にないなんて考えられないことだった。
メールや電話を朝まで放っておいたら、後で何て言われるかわかったもんじゃない。
三階まで上がって廊下を走ってると、奥からヴァイオリンの音が聞こえてきた。
近くに人がいるとわかって、ちょっとほっとする。
多分吹奏楽部だろうけど、ヴァイオリンなんて珍しい。
弾いてるのは新入生みたいで、あんまり上手くなかった。
何て曲だろう。
どこかで聞いたことがある気がするけど、タイトルはわからなかった。
「ねこふんじゃった」も弾けないくらい音楽のことはさっぱりでも、このヴァイオリンの弾き手が下手だってことはわかる。
何度も音を外して、時々ガラスを釘で擦った時みたいなひどい音もした。
弾き手は私が行こうとしてる教室にいるみたいで、ヴァイオリンの音色がだんだん大きくなってくる。
その音が急に途切れた。
教室に着いた私がドアを開けると、中はがらんとしてた。
夕日と薄闇が交じり合う空気は、ホームルームの時よりひんやりしてる。
教室の前の壁にはチョークの粉だらけの大きな黒板。
反対の壁にはみんなが荷物を置くロッカーがあった。
だらりと下がる明かりの点いてない蛍光灯の下で、いい加減に並んだ机が列を作ってる。
見慣れた教室の中に、意外な奴がいた。
『だいちゅう』。
同じクラスの男子だ。
名前は確か『大宙(たかひろ)』だったと思うけど、名前のインパクトが強いせいで、名字の方はうろ覚えだった。
何しろ字が凄い。
多分「スケールの大きい人間になれ」って願いが込められてるんだろうけど、「大きい宙(そら)」ってスケールでか過ぎだろうと思う。
そんな変わった名前だから、なかなか『たかひろ』なんて読める奴はいない。
誰かがからかい半分に『だいちゅう』って呼び出して、それがこいつの渾名になってしまった。
渾名は可愛いけど、当の『だいちゅう』は少しも可愛くなんかない。
野良猫みたいに荒んだ雰囲気。
鋭い目付き。
笑った顔なんか見たことない。
このクラスになって一月以上経つのに、友達もいないみたいで、一人でいる所をよく見た。
暗くて地味だけど、よく見れば顔は結構いいかも知れない。
でも好みどころかちょっと苦手だった。
こういう何を考えてるのかわからない奴はあんまり好きじゃない。
その『だいちゅう』は窓際の机に座って、ヴァイオリンを弾くポーズのまま、ちょっと気まずそうに私を見てた。
私もじろじろと『だいちゅう』を見返して言う。
「ふーん、『だいちゅう』ってヴァイオリン弾けたんだ」
『だいちゅう』は黙って目を逸らすと、ヴァイオリンと弓を下ろした。
気にしないでくれていいのに、私がいると邪魔みたいだ。
私は小走りで自分の机に駆け寄ると、机の中を覗き込む。
ケータイはやっぱり机の中にあった。
私はケータイをしっかり握り締めると、ドアに駆け寄って『だいちゅう』を振り返る。
「邪魔しちゃってごめんね」
「さっさと行けよ」
多分これが『だいちゅう』との初めての会話だったけど、思った通り素っ気ない奴だ。
カチンと来る。
ささやかな腹いせに、私は近くにあった椅子に腰を下ろして言った。
「せっかくだから一曲弾いてよ。聞いたら帰るから」
「やだ。人に聞かせるために練習してるんじゃねえし」
『だいちゅう』は私と目も合わせずにそう言った。
てっきり吹奏楽部なのかと思ってたけど、違うみたいだ。
「一曲くらいいいじゃん。どうせ廊下で聞いちゃったんだしさ」
「だったらわざわざ聞かなくてもいいだろ」
「でも、ちょっとだけだもん。
『だいちゅう』だって、私がいると練習できなくて困るんじゃないの?」
「『だいちゅう』言うな」
『だいちゅう』はそう言うと、ヴァイオリンをケースにしまい始めた。
よっぽど私に聞かせたくないんだろう。
減る訳でもないのに、ケチな奴だ。
私が机に頬杖を付いて睨むみたいに『だいちゅう』を見てると、『だいちゅう』は挨拶もなしに教室を出て行った。
叩き付けるみたいにドアが閉まって、私のイライラはピークになる。
何だあれ。
邪魔したのは悪かったと思うけど、ちゃんと謝ったんだし、あんな態度取らなくてもいいのに。
ムカつく。
数日後の放課後。
私は足音を忍ばせて、ヴァイオリンの音がする教室のドアに歩み寄った。
弾いてるのはきっと『だいちゅう』だろう。
弾いてるのはこの間と同じ曲で、今日もよく音が外れてる。
いつも教室で弾いてるんじゃないかと思ったら、やっぱりだ。
ここ何日も友達と一度家に帰ってからわざわざ学校に戻って来てた甲斐があった。
できれば学校で待ってたかったけど、私にも付き合いってものがある。
あんまり輪から外れてると、友達を失くすかも知れなかった。
『だいちゅう』みたいにはなりたくない。
それなのに何でこんなことしてるんだろう。
今更だけど、そんな考えが頭を過った。
よく考えてみれば、こんなことしてもいいことなんて何もない。
それどころかトラブルの元にかならないだろう。
『だいちゅう』なんかに関わってるってみんなにバレたら、きっと変な目で見られるだろうし、『だいちゅう』と噂になったりもするかも知れない。
考えるだけでぞっとする。
でもあんな態度を取られると、無理にでも『だいちゅう』に一曲弾かせないと気が済まなかった。
やられたらやり返すのがケンカの基本だ。
『だいちゅう』はそんなつもりじゃなかったのかも知れないけど、とにかく私はムカついた。
絶対ギャフンと言わせてやる。
私がドアを一気に開けると、ヴァイオリンの音が止んだ。
薄暗い教室の中で、『だいちゅう』がびっくりした顔をしてるのが面白い。
「やーっぱりまた弾いてたんだ」
にやりとする私を見て、窓際の机に腰掛けた『だいちゅう』はあからさまにむっとした顔になった。
私から視線を外すと、ヴァイオリンを静かに下ろして言う。
「何しに来たんだよ」
「一曲聞きに来たの。まだ弾いてくれてないでしょ。
わざわざ来たんだから、今日はちゃんと弾いてよね」
「俺は弾くなんて言ってねえ。邪魔すんな」
「そんなに邪魔されたくないんだったら、家で弾けばいいじゃん」
「弾けるもんなら弾いてる。家から近いし、タダだし、ここが一番いいんだ」
「ふーん」
私は気のない声を出した。
『だいちゅう』の家の事情なんかどうでもいい。
「そんなことより、とにかく弾いてよ。いつも練習してるやつでいいからさ」
「やだっつってんだろ。これ大事なんだ。勿体無くて聞かせられねえ」
「ケチ。別に聞かせたってヴァイオリン……」
「減ったりしないでしょ」と言おうとした私を遮って、『だいちゅう』は言った。
「『エリザベス』」
「え?」
「こいつの名前」
『だいちゅう』は軽くヴァイオリンを揺らして見せた。
物に名前を付ける変人に会ったのは初めてだ。
これじゃ友達なんかできる訳ないだろう。
でも『エリザベス』を見る『だいちゅう』の目は優しくて、どことなく幸せそうだった。
『だいちゅう』でもこんな顔をするんだなと、ちょっと感心する。
笑ったことさえなさそうな奴だと思ってたのに、すごく意外だ。
でもこの方がいつもより全然いい。
「ねえ、何でエリザベスなの?」
「ヴァイオリンってお嬢っぽい感じだから」
『だいちゅう』は穏やかな目で『エリザベス』を見つめたまま、目を上げるでもなくそう答えた。
こいつの感性絶対おかしい。
そもそもヴァイオリンは女じゃないだろう。
「ねえ、『だいちゅう』ってシャーペンとか鞄にまで名前付けてる訳?」
「んな訳ねえだろ。めんどくせえ」
『だいちゅう』は馬鹿馬鹿しそうにそう言った。
『だいちゅう』にとって、このヴァイオリンは特別な物みたいだ。
何か思い入れがあるのか、単純に高い物なのかも知れない。
「高いの? そのヴァイオリン」
「『エリザベス』」
しつこい奴だ。
ちょっとイラッとしたけど、大事にしている物をつまらない物みたいに言われたくないのはわかる。
私は渋々言い直した。
「……『エリザベス』って高い訳?」
「知らねえ。伯父さんからの貰い物なんだ」
「へえ、伯父さんもヴァイオリン弾けるんだ。お父さんも弾けたりするの?」
そう訊いた途端、優しかった『だいちゅう』の表情が一変した。
優しさが綺麗に消え失せて、殺気すら感じる険しいそれになる。
まるで別人みたいな変わり様だ。
黙って『エリザベス』を片付け始めた『だいちゅう』を呆気に取られて見ていると、『だいちゅう』は足早に出て行った。
乱暴に閉められたドアが立てた大きな音に、私は小さく首を竦める。
悪いことしちゃったなと、ちょっと反省した。
多分『だいちゅう』にとって、お父さんのことは触れて欲しくないことだったんだろう。
今日はケンカを売るつもりで来たけど、それでもやっぱり言っていいことといけないことがある。
明日にでも『だいちゅう』に謝らないといけないなと思いながら、私は教室を後にした。
次の日。
私はちょっと緊張しながら学校へ行った。
『だいちゅう』が来たら、一言「ごめんね」と謝る。
ただそれだけのことなのに、ちゃんとできるかわからなかった。
何しろ相手があの『だいちゅう』だ。
みんながいる前で近寄って行くのは勇気がいる。
あんな奴に謝るのは口惜しいけど、このまま謝らないのもちょっと気持ち悪かった。
私は『だいちゅう』に謝る自分を何度もイメージしながら、少しぎこちない足取りで階段を上ってく。
三階まで上がって廊下を歩いてると、教室のドアが見えてきた。
思わずごくりと唾を飲み込む。
こうなったらさっさと済ませよう。
私は心にめいいっぱい勢いを付けると、教室のドアを一気に開けた。
一騎打ちを挑む戦国武将みたいな気持ちで『だいちゅう』の席に目をやったけど、そこは空っぽ。
まだ来てないみたいだった。
やる気が力一杯空回りした私は何でまだ来てないんだとムカつく一方、ちょっとほっとする。
でもきっと休みじゃないんだろう。
入学からこっち、『だいちゅう』は多分一度も学校を休んでない。
後で謝らなきゃいけないんだと思うと、また面倒になってきた。
物事ってどんなことでも自分にとってベストなタイミングがあって、それを逃すとはっきり言ってやりたくなくなる。
『だいちゅう』はきっとまた教室でヴァイオリンを弾くだろうから、謝るのはその時でもいいかも知れなかった。
だけどいくら直接話さないからって、あんなことがあった『だいちゅう』に謝りもしないで毎日顔を合わせるのはちょっと気まずい。
おまけに時間が経てば経つ程謝り難くなりそうだった。
でも、一度萎んだ気持ちは簡単には戻らない。
ぐらついた心を定め切れないまま、私はとりあえず自分の机に鞄を下ろした。
いつも通り友達と話してても、気になってドアが開く度につい見てしまう。
『だいちゅう』はなかなか来なかった。
「どうしたの? 何かドアの方ばっかり見てるけど」
「ん、何でもないよ」
私は適当に友達を誤魔化しながら、まだ迷ってた。
でもだんだん先延ばしにする方に気持ちが傾き始める。
やっぱりみんなの目が気になった。
とりあえずその場のノリに任せて、謝れたら謝ろう。
そう決めた時、『だいちゅう』が教室に入ってきた。
誰も挨拶しないし、『だいちゅう』も誰にも挨拶しない。
それでも『だいちゅう』は寂しそうな顔一つせずに自分の席に着いた。
『だいちゅう』の周りだけ、バリアができてるみたいに人がいない。
やっぱり友達はいないみたいだ。
それからも時々『だいちゅう』を目で追ってたけど、『だいちゅう』はいつ見ても一人だった。
やっぱり誰もいない教室じゃないと謝れそうになくて、私は毎日放課後の教室に通うことにした。
でも『だいちゅう』は私を避けてるみたいだ。
その週はとうとう『だいちゅう』に会えなかった。
私は仕方なく土日も学校に行くことにして、日曜日の教室でやっと『エリザベス』を練習中の『だいちゅう』に会えた。
『だいちゅう』は心底嫌そうな顔で私を見ると、尖った声で言う。
「また来たのかよ」
相変わらずの態度でやっぱりムカつくけど、私は怒ったらいけないと自分に言い聞かせた。
一応謝りに来たんだから、ケンカを売るのはまずい。
私は心の中で大きく深呼吸して怒りをやり過ごしてから、思い切って言った。
「この間はごめんね」
「……別に」
『だいちゅう』は私から逸らした視線を『エリザベス』に落とすと、落ち着きなく弄り始めた。
「いい加減俺に付き纏うのやめろよ。すげえ鬱陶しい」
「だったら一曲弾いてよ。それで私の気が済むんだって言ってるじゃん」
「前にも言っただろ。やなんだよ。デリカシーねえな」
『だいちゅう』はあくまで頑なで、しかも口が悪かった。
何でここまで言われないといけないんだろう。
さっき謝ったばかりだけど、ちょっとキレそうになる。
「『エリザベス』弾いてって言ってるだけじゃん。
何でデリカシーどうこう言われないといけない訳?」
「『エリザベス』、俺の彼女だから」
「へえ」
よっぽどヴァイオリンにハマッてるんだなあと思っていると、『だいちゅう』が一層冷たい目で私を見た。
「藤村、ぜってー俺の言ってることわかってねえだろ」
「はあ? 音楽が恋人とか、そういう感じの話なんじゃないの?」
「全然違う。『対物性愛者』って聞いたことねえ?」
たいぶつせいあいしゃ。
初めて聞く言葉で、私にはさっぱり意味がわからなかった。
「どういう字書くの?」
『だいちゅう』は『エリザベス』と一緒に黒板に歩み寄ると、チョークを摘んで黒板に『対物性愛者』と書いた。
全然知らない言葉だけど、字面から物が好きな人のことだってことくらいはわかる。
それもただ好きって訳じゃなさそうだ。
『だいちゅう』が本当に『対物性愛者』ってやつなら、多分『エリザベス』とキスとかそれ以上のこともしたいと思ってるんだろう。
だとしたら、『だいちゅう』が私の前で『エリザベス』を弾きたがらないのも納得だ。
『だいちゅう』からすれば自分が触ってる『エリザベス』が上げる声なんて、とてもじゃないけど聞かせられないだろう。
『だいちゅう』が『エリザベス』といちゃついてるところをリアルに想像して、私はちょっと気持ち悪くなった。
「これでわかっただろ。もう俺に近付くな」
『だいちゅう』は『エリザベス』を片付けると、走って教室を出て行った。
私は一人で帰り道を歩きながら、さっき『だいちゅう』に言われたことを考えてた。
「『エリザベス』、俺の彼女だから」
「『対物性愛者』って聞いたことねえ?」
あれって本当なんだろうか。
彼女がヴァイオリンなんて、普通に考えたら冗談に決まってる。
でもさっきの『だいちゅう』はとてもふざけてるようには見えなかった。
この間らしくないくらい優しい目で『エリザベス』を見てたし、『対物性愛者』なんて難しい言葉も知ってたし、本当なのかも知れない。
でも本当だったとしたら、『だいちゅう』はどうして私なんかにあんな話をしたんだろう。
私を振り切るためにしたって、リスクが大き過ぎる。
言い触らされたりしたら、イジメられるかも知れないのに。
本当に何考えてるんだか全然わからない。
私はとりあえず、『対物性愛者』って言葉を調べてみることにした。
『だいちゅう』の出まかせじゃないとも言い切れない。
私はケータイを開いてネットにアクセスすると、『対物性愛者』と打ち込んで検索ボタンを押した。
半信半疑だったけど、そういう言葉はちゃんとあるみたいだ。
たくさんのページがヒットする。
一番上に出てきた『対物性愛』っていうページを開くと、短い説明文が目に飛び込んできた。
対物性愛とは人間や動物などの命あるものにではなく、
建物や物に愛情を抱き、性的に惹きつけられる性的倒錯の一種。
私は難しい顔になった。
大体予想通りのことが書いてあったけど、これだけじゃよくわからない。
病気みたいなものなのかなと思いながら、私はすぐ下に出てる概要を読み始めた。
幼児期に虐待を受けたり、
人間関係で挫折したりすると人間に対して愛情を抱くことができなくなり、愛情を物に向ける。
対象となるものはおもちゃの列車、オルガン、海底油田の掘削装置、建物、コンピュータ、車などさまざまである。
しかし今のところ米国精神医学会などでは認知されていない。
ざっと文章を浚ってから、私はネットの接続を切った。
今まで物を見てどきどきしたことなんてなくて、全然ピンと来ない説明だったけど、とにかく『対物性愛者』に心に深い傷を負った人が多いのはわかった。
きっと『だいちゅう』も、そんな一人に違いない。
原因は多分虐待だ。
そうじゃなかったら、お父さんって言葉にあんな反応はしないだろう。
虐待されてなかったとしても、とても愛されてるとは思えない。
おまけに人を寄せ付けないあの態度。
わざとなのか無意識なのか、傷付けられる前に傷付けることで自分を守ろうとしてるみたいだ。
もしかしたらもっと投げやりに、傷付けられてもいいなんて思ってるのかも知れない。
そうでなかったら、きっと私にあんな話はしないだろう。
ヴァイオリンを彼女にしちゃうくらい寂しがり屋の癖に、何を強がってるんだか、本当にどうしようもない馬鹿だ。
だから、そう言ってやろうと思う。
ここで引き下がったら『だいちゅう』の思うツボだし、そんなのは全然私らしくなかった。
「よしっ!」
私は頬を軽く叩いて、自分に気合を入れた。
何日かが経った放課後。
私は『だいちゅう』が『エリザベス』を弾いてる教室に乗り込んだ。
たどたどしいメロディが止んで、こっちを睨んでくる『だいちゅう』と視線がぶつかる。
でも電気が付いてない教室は薄暗くて、迫力は三割減だった。
もしかしたら、『だいちゅう』は『エリザベス』といい雰囲気を作ろうとしてたのかも知れないとふと思う。
相手がヴァイオリンでも気持ち悪くて、私は電気を付けた。
『だいちゅう』は眩しそうに瞬きしながら、迷惑そうに言う。
「エリザベスなら弾かねえぞ」
『だいちゅう』は先手必勝のつもりだったんだろうけど、その一言を私は余裕で受け流した。
「あっそ。別にいいよ。今日は他の用事があるんだ」
「用事?」
眉を寄せた『だいちゅう』に、私は後ろ手にドアを閉めて尋ねた。
「あのさあ、『だいちゅう』って本気で『エリザベス』が好きなの?」
「そうだっつっただろ」
「『エリザベス』も『だいちゅう』のこと好きな訳?」
「だから彼女なんだよ」
「でも、そんなの『だいちゅう』の都合のいい思い込みでしょ」
そう言った途端、『だいちゅう』は凄い目付きで私を睨んだ。
怖くないって言うと嘘になるけど、『だいちゅう』に嫌われるのなんてどうってことない。
私は言ってやった。
「バッカみたい。 『だいちゅう』が好きな『エリザベス』なんて子はどこにもいないんだよ」
人に深く傷付けられた『対物性愛者』は、人じゃなくて物を愛する。
多分物は裏切らないから、人は愛せなくても物なら愛せるってことなんだろう。
寂しい理屈だと思う。
おまけに虚しい。
ヴァイオリンはヴァイオリンでしかないのに。
それでも『だいちゅう』が『エリザベス』なんて名前を付けてるのは、
『エリザベス』に人間みたいな性格や心を感じてるからだろう。
でもそんなのは只の勘違い――錯覚でしかない。
きっと『だいちゅう』が本当に愛してるのは、『エリザベス』じゃなくて自分だ。
「物と恋愛ごっこするくらいなら、人と恋愛すればいいじゃん。
『だいちゅう』にとっては大変なことなのかも知れないけど、『だいちゅう』見てるとすっごくイライラする。
態度悪いしさ。八つ当たりでもしてるつもりな訳?
『だいちゅう』にもいろいろあるんだろうけど、そんなの全然理由にならないんだからね!」
今まで溜まりまくってたムカムカが一気に出てきて、私は早口でそう捲くし立てた。
『だいちゅう』のことをよく知ってる訳じゃないのに、こんなことを言うのは間違ってるのかも知れない。
『エリザベス』を好きなのだって別に悪いことじゃないし、『だいちゅう』の勝手だ。
でもどうしても言わないと気が済まなかった。
友情でも愛情でも同情でもなく、ムカつくんだから仕方がない。
てっきり『だいちゅう』はすぐに何か言い返してくるだろうと思ってたけど、黙りこくったままだった。
多分とんでもなく怒ってるんだろう。
もしかしたら手が出たりするかも知れない。
私が身構えてると、『だいちゅう』はしばらくして言った。
「……藤村ってお節介だな」
その声はとても静かで、私は目をぱちくりさせた。
すっごく意外な反応だ。
「ムカついたから、言いたいこと言っただけだよ」
何だかよくわからないけど、すっきり終われそうだ。
私は指を組んで大きく伸びをしながら、気分良く続けた。
「一応気も済んだし、もう来ないから好きなだけ練習すれば? じゃあね」
踵を返して教室を出ようとした私の背中に、 『だいちゅう』が声を掛けてきた。
「おい」
振り返ると、『だいちゅう』があさっての方向を見たまま言う。
「悪かったな」
まさか『だいちゅう』に謝られるとは思ってなくて、私はきょとんとする。
私の言葉がちゃんと『だいちゅう』に届くなんて思わなかった。
どうせ私が何を言ったって、『だいちゅう』は聞かないだろうと思ってたのに。
私がただ黙って『だいちゅう』を見てると、『だいちゅう』はヴァイオリンの腕前が口に移ったみたいな口調で言った。
「俺、誰にでもこんなんで……別に、藤村が悪い訳じゃねえ、から」
「もういいよ。私も良くなかったし。まあ、どっちかって言うと、『だいちゅう』の方が悪いと思うけどね」
「『だいちゅう』言うな。『たかひろ』だ」
「何? 『たかひろ』って呼んでいいの?」
何気なくそう訊くと、『だいちゅう』は急に黙り込んだ。
何だか誤解されてる気がするけど、『だいちゅう』にとってはいいことの筈だから、私は余計なことは言わないでおくことにした。
代わりに別のことを言ってみる。
「あのさ」
「ん?」
「これから会ったら挨拶くらいしてあげるから、『だいちゅう』もしてよね。無視しないでよ」
そう言いながら、私はちょっぴり後ろめたい気持ちになった。
もしかしたら、私は『だいちゅう』にとんでもなく酷いことをしたのかも知れない。
私にできるのはこれくらいだし、これ以上のことをするつもりもなかった。
ただ気が向いたからやっただけ。
野良猫へのエサやりみたいなものだ。
でも理由はともかく、『だいちゅう』が人と関わるのは悪いことじゃないだろう。
きっとそうだ。
「じゃあね、バイバイ」
「また明日な」
私は『だいちゅう』に軽く手を振って教室を出た。
※ 本文中の『対物性愛』に関する説明は、「対物性愛―Wikipedia」より引用しました
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E7%89%A9%E6%80%A7%E6%84%9B)
尚、主人公の対物性愛への考察は学問的根拠に基づくものではありません